迷宮入りの恋
昼間なのにうす暗い店内で、それでも渡井穂波がどこにいるのかはすぐわかった。特別暗い隅の一角に歩みよると、腐れ縁の友人は足音に顔を上げた。私が椅子を引いて挨拶しようとしたところに、目を白黒させながら「やだ時子ちゃん、ひどい顔」と言った。
他でもないこの私を捕まえて、開口一番にひどい顔もないものだと思う。けれど今日ばかりはそれなりに不細工な顔をしている自覚があったので、なにも言い返せなかった。ひとまずオーダーを取りに来たウェイトレスに「ホットコーヒーを一つ」と伝え、失礼な発言には無視を決めこむ。
「風邪でもひいたの?」
それでも穂波はいつもの濡れて黒目がちな、どこかゴールデン・レトリバーを連想させる瞳で、まっすぐに私を追撃してきた。彼女に上目ぎみで質問されると私はいつも、その問いに必ず答えなくてはいけないという強迫観念に駆られた。そして実際、答えなくてもいいことまですらすら答えてしまうのだった。
今だってそうだ。喉は痛いし鼻はぐずぐずしているし、相手がこのやっかいな同級生でさえなければ、しなくていい話なんかに労力は絶対に割かない。それなのに唇は勝手に動き、答えなくてもいいことを告げ口するのだ。
「昨日、知らない人と遊んだら、いつの間にか裸で寝ちゃってて」
案の定穂波はゴールデン・レトリバーの瞳をきゅっと吊りあげ、尖った声で「もう!」と吠えた。普段のおせっかいぶりからするとその一声だけで満足するようには思えなかったから、ここが喫茶店の一角であることに配慮したのか、あるいは私の声があまりにみっともないのに驚いたのかもしれない。口をすぼめ、
「またそんなことして……」
不満げにそう続けて、マグカップに口をつける。テーブルのむこうからカフェオレの優しい香りが漂って、空っぽの胃をくすぐった。
それで初めて、昨夜バーで酒のお供のナッツをつまんだきりなにも食べていないのを思いだした。朝の寝覚めは空調の加減を知らない相手と無防備に眠ってしまったせいで最悪だったし、おまけに起きる予定の時間はとっくに過ぎていて、適当なものをかきこむ暇さえなかったのだ。自覚するとよけいに食べ物が恋しくなって、べたべたに甘いケーキでもなんでもいいからとにかくカロリーを摂取したくなってしまう。
メニューに手を伸ばしかけたところで先ほどのウェイトレスがやってきて、私のコーヒーと、穂波の前にチーズケーキを置いて戻っていった。
「私も同じのを頼もうかしら。お腹すいてるの」
「えっ。……時子ちゃん、ここのチーズケーキ食べたことないでしょう。ひと口あげるから、食べたあとで考えたほうがいいよ」
「なによそれ。どういうこと?」
怪訝に思いながら、穂波がデザートフォークに載せて差しだしたケーキのかけらを口にする。不吉な言いぐさの意味はすぐにわかった。少し舐めただけなのにあまりの甘さに横っ面を張られたようで、なんでもいいなんて考えは一瞬で霧消した。
「信じられない」
眉間にできたしわをなぞりながら呻くと、穂波は「だから言ったのに」と肩をすくめた。そしてなんでもないような顔でべたべたに甘いチーズケーキを切り崩しはじめた。
「ねえ、もっと自分を大切にしたら。せっかくきれいな顔してるのに、雑に扱うのはもったいないよ」
たった今、ケーキを食べていたら伝えるべきことを思いだした――かのように穂波は言う。しかし言いながらちらりとも私を見なかったのは、それがこともなげに話しているふりだという何よりの証拠だった。普段はまっすぐ目を見て話すくせに、言葉の裏に何かを忍ばせるときは絶対に視線を合わせない。彼女はときおり子どものように単純だ。
「よく言われるわ」
「自分を大切にって?」
「きれいな顔だって」
「……今はあまりきれいじゃないけどね」
私は不細工な鼻声で笑って、コーヒーに口をつけた。苦さと温かさが、沁み渡るようにおいしい。やっぱりこれだわ、と誰に言うでもなく思った。
穂波が私に何度も何度も、自分を大切に、と苦言を呈するのは、篠宮時子が人に『扱われる』側だと思っているからで、私が穂波の言葉を受け流している理由は、その思い込みと現実との乖離にある。
自分を大切に、なんていうことは、バーのカウンターでたまたま隣に座っただけの女とホテルにしけこみ、朝になったら用はないとばかりに置いて行かれるような女にこそ、口をすっぱくして言ってやるべきだ。私は男に抱かれないし、女にも抱かれたことはない。それを知らない穂波の誤解を解かないままなので、私は友人に自分を大切にしないあばずれだと思われている。
「穂波。私、自分のこと大切にしてるつもりよ」
本心からそう言った。穂波は眉を寄せ、まるで哲学者の言葉を聞くときのような顔をする。私の言ったことが不可解で、一生かかっても理解できない、とでも言いたげな表情だ。
訊いてくれればいいのに、と思う。穂波はたった一言「どんなひとと寝ているの」と訊くだけでいい。それだけで私はすべてを話すだろう。自分が女が好きな女であることも、愛した女とは一度も寝ていないことも、愛している女と似た女ばかり選んで遊んでいることも、つつみ隠さずすべて。
どうすればいいのかは分かっている。穂波のお説教にうそぶくのをやめて、恋に悩んでやけになっているのだとでも言えば、きっとこの善良な友人は心配して核心を訊ねてくるはずだった。それでも私がそうしないのは、自分を大切にしているからに他ならない。まっすぐな恋をしたことのない私は、愛している女に本当のことを言うのが怖いのだ。
「時子ちゃんは、難しいひとだなあ……」
穂波は唇の前で指を組んで言った。私は「そう?」と首をかしげてみせる。
甘いものが苦手で、穂波が好き。私という人間を説明するならたったそれだけで足りるはずなのに、いったいなにがことをそんなに難しくしてしまうのだろう。どこにいたって彼女を見つけられるのに、この迷路の出口はちっとも見つからないままだ。
私は「難しいよ」と苦笑いする穂波の瞳を、いつも彼女がそうしてくるようにまっすぐ見つめた。濡れた闇のような目の中に、出口を求めてさまよう私が映っているはずだった。